昭和50年05月26日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ、如何に有り難そうに心経や大祓を上げても、心に真がなければ神に嘘言を言うも同然じゃ、拍手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ小さい音でも神には聞こえる、拝むにも大声をしたり節をつけたりせぬでも、人にものを言う通りに拝め。」
信心をさせて頂く者に対する心掛けと申しますか、折角信心させて貰うなら、信心修行をさせて貰うなら、信心修行にキチッとした節度を持つ。信心させて貰うのに、只自分の気分の向いた時だけ、神様に向かうと言った様な事ではなくて、そこにね信心のキチッとした節度を持つと同時に、信心をさせて頂く者は全てに真、真心がなければいけないぞと、まあこの二つの事を教えておられる御教えだと思います。
雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん、と云う事はまあ例えて申しますと、朝の御祈念なら朝の御祈念を思い立たれますとね、ならその朝の御祈念のお参りを思い立つ。ところが昨夜は遅かったと致しましょうか、昨夜はまぁ言うならばてつやの様だと致しましょうか、ね。だから今日はもう、神様も御しょうちだから御無礼しょうと、言った様な事ではいけないぞと言う事だと思うです、ね。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。
昨夜は眠ってないから、もう今日は御ぶれいすると言った様な事では駄目だと。信心さして頂く者にはね、ここは大事なとこです。私くしは特に信心にはせつどが大事と言う事を、もう昔から言っておる。キチッとした信心、そこにね確かにキチッとしたそれこそ尺で引いた様な、おかげもだんだん頂けて来る様になるです。おかげの方だけは一つキチッとしたおかげ頂きたい、信心はしだごだで良かろう筈がないね。問題はねそう言う根性が必要なんです。
まだ私くしのあのう是は信者時代でした、友人が居ましてね椛目の上の矢作と云う所、椛目の本村です矢作と言う所なんです。亡くなりましてお通夜に行きました。もう一晩中もうお通夜をさせて貰う訳ですね。それで朝の御祈念の時間になりますから、私は立たせて頂いて、言うならば、自分の住まいの前を素通りして行かねばならん。善導寺までお参りするのに。その矢作から。
そう言う時にたとえば、家にチョイと寄ってね、チョイと横になったらもう駄目です。ですからもうそのまま家の前を素通りしてお参りをする、という言わば行き方なんです。夕べは一晩中寝とらんから、チョッと今日は御無礼する、もう大体ね神様の前にはもうそれこそ一分一厘ね、すきを作っちゃならんです。ならずうっと何も彼にもかと言うと、こと神様のことにかぎってはと云う事、一番初めに言ってあるでしょうが、神参りをするにと言うてある。
外の事は例えばしだごだが例えばあったとしましても、それは生身の人間ですから、けれどもこと神様に、所が神様は物も言いなさらななければ姿もないですから、誤魔化そうと思うならどんなにでも誤魔化される。私しが北京時代家内の母が来て居りました、まぁあの時分は随分お酒も頂きましたが、もうぐでんぐでんになって帰って来る事がある。皆んなに送られてやっとかっと帰って来る。
それでも家に帰るとシャンとしてました。お神様をこう大きくお祀りしておりました、ですからやっぱり顔を洗うて口を濯いで、そして大祓い何巻とその時分には決めとりましたから、大祓いを上げなければ寝みませんでした。もうどんなこりゃもう絶対。その事を家内の母が、もう父ちゃまばかりは是だけは感心と言うて、他の事は感心する事は無かが、是だけは感心と言われておりました。
もうそこにはね、言うならば私くしは親も家内も、是だけには言うならば神様の事に限ってだけは、家のお父さんは素晴らしい、他の事はだらしがなくっても、是だけはと思わせられる物があったと思う。私くしと家内の母は、色んな意味でやかましい事でしたけれども、もうー家のお父ちゃまばっかりは、もう神様だけには感心なこっちゃある、と言っておりました。
まぁそして大祓いを上げながらそのまま倒れておる事もやっぱりありました。けれどもやっぱり、又おずんでからまた大祓いを上げてしまわなければ寝まなかったです。私くしはこの雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんと言うのは、そう言う事だと思うです。はぁ夕べ寝んどりませんじゃったけんと、それを口実にするそれはむごう要領よう、さぁあれがあなたと要領よう言う、こりゃ私しにはそれで通じますけれども、神様には通じんです。
はぁあなた夕べはおそう御座いましたもんじゃけん、はぁそうじゃったのとしか言いはせん人間は。けれども本当にキチッとしたおかげを頂きたいなら、ここを毅然として守らなければ駄目です。もう私し体験者が言うんだから間違いないです。私共の場合本当に神様が、必要な物なら必要な物がね、キチッと自分の願った事がキチッと墨金で引いたごとおかげを頂くと言うのは、こと神様の事に限ってだけは、節度を持って来たから、神様はキチッと節度を持っておかげ下さるんだと思うんです。
まぁ言うならば、まぁよく言いますよね、年を取ってから段々、若い者を見る目と言う物がです、今の若い者んなもうだらしがないと言う様な事をよく言いますけれども、それは今の者も、昔の者も同んなじ事です。根性は同んなじです。私達の時代はそれでなからなければならなかったけど、今はそげな事言いよっちゃと言う事ないです。こと神様事信心、こと神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰るのですから。
夕べあんたが眠っとらん事は神様がご承知だ。そこでもです矢張り眠っとる夕べは眠っとりませんから、と言った様な事を口実にせずにキチッと神様の前に私くしは修行をし抜かせて頂く、と言う様な信心の姿勢こそですね身に徳を受ける修行だと思います。決して雨が降るから風が吹くからだけの事じゃない事信心事神参りをするに私くしそこん所はそう言う風に頂いて貰いたい。一つ信心には節度を持ちなさいませ。
例えばお家ならお家の神様のご祈念をするのならです、拝んだり拝まじゃったりと 言う事ではおかげも頂いたり頂かじゃったりです。それで徳が受けられる筈がないです。外かん事は仕方ないですよ、なら生身の人間ですから。他の事はだらしがなかったちゃ構わんけれどもです、こと神様に限ってだけは毅然としたね、打ち向かい方と言うか、を、現して行くと云う事が、私くしは、雨が降るから風が吹くからえらいと思わんで、そこを進み貫き参り通すと言う意味と同じ事だと思うです。ね。
夕べはそげな都合でもう人間の都合なんかと言う事は、神様の前じゃー言われんです。人間の前にゃ言えます、あヽそげな事でしたか、それはお疲れでしたでしょう、そりゃお参りが出来んのも無理はない、こうなんですけれども、神様はそう言う時こそ力を与えよう、お徳を下さろうと思うて御座るです。だからここではっきり教えておられます。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰る。身に徳を受けるから、一分一厘間違いのないおかげの働きになって来るのです。
例えば此処で五つの願いが言われる様になりました。御神前に拍手で向こうたが最後、どんな願いどんなお詫びどんなお礼を申し上げさせて貰う時でも、この五つの願いだけは必ず言いなさいよ、唱えなさいよと私しが言うとるが、それを続けておる人があるでしょうか。私共が例えば善導寺なら善導寺に、例えばお参りさせて頂く時に、必ず下から只今からね、善導寺にお参りさせて頂きますから、道中途中無事でと言う事をもう絶対必ず、此処へ座っておって神様と通いどうしに通っておっても。
私しは例えば、今から善導寺に行くと言う時にには、その事をお願いして行きます必ず。ね。ならそう言うなら何分間の間だけでもです、そう言うお願いをした後に必ず、五つのお願いだけは申しとります。そうするともう一つは合楽示現活動に参画さして下さいと、三つの事だけは必ず御祈念の中に申します。もうそげん言わんでん神様は解っとるがと神様が云いなさりゃせんじゃろうかと思うけれども、是だけはもう節度なんです。私しはこの事が言われる時に皆さんに何回も言ったでしょう。
もう拍手打って神様へ心を向けた時には、どう言う事をお礼を申し上げる事であろうが、お侘びをする時であろうがでも、この五つの願いだけは必ず称え続けなさいよと。何でもない様ですけれども、それが大変な私しは信心の節度にもなるし、又五つの願いなら五つの願いが本当に成就する事であるなら、それ位にです神様に喰い下がる様にして、祈らして貰う願わして貰う。
その私は何と言うか、その一心が神様に通うのじゃないかと思うです。皆なさんもし御祈念の時に、五つの願いを忘れておられる方があったら、今日からでも良いですから、もう一遍やり直されると良いですね。素晴らしいでしょう。だから私くしの周囲に一緒に居られる方は気が付かれる、善導寺から又帰って来る時も、ならちょっとお礼する時にゃ、この五つの願いだけはもう絶対です、祈りの言葉の中に申します。
時き々どん願うとる、そげなこっちゃでけんです、それも節度をもって。私しは合楽の方達の、信心の素晴らしい根性と言うものは、そう言う信心の節度が皆さんキチッとしておられる、と言う様なね、ものを身に付けて頂きたいと思うです。
本当にまあ私共も若い時に、年寄りの方から言われたけれどもです、もう今の若い者ばっかりはダラシがない、と年寄りをして言わしめる様な事であっちゃならんです。年寄りもやっぱり若い時代があったんですから。その若い時代の事を思い出して、私しが今日は若い皆さんに話しておるのですから。私しは是だけは疑えなかった、他の事はシダゴダの所があっても、事神様の事だけに限ってはもう絶対の物であると。
だから神様が私の祈る、願う所神様が絶対聞き分けて下さる、おかげを下さっておるのは、まあそう言う何十年の積み重ねがおかげになっとると思います。てんでまぁお参りする時にゃてんでもうそれこそ、やあやあ言うて参って来るけども、でない時に今度反対にスカッとこう、所謂節度がない。だから工夫です。昔の兵隊さんの、言わば節度と言う事を非常に喧しく言われました。例えば「気をつけ」「休め」でもそうです、只力ばっかり入れたっちゃいけません。
敬礼をするでも例えば「休め」をするでも、一つの同じ「休め」と言うだけでもです、ぴちっと靴の踵(かかと)がかちっと一緒に揃う様な、言うなら気を付けの不動の姿勢を取って「気を付け」居りますね。「休め」でも、パッと一時に揃う様なね、その音を出す事の矢張り要領が要りましたですね。だからそう言う一つのまぁ要領を体得すると良いですね。同時に如何に有難そうに大祓いや心経を上げても、心に真がなければ、神に虚言を言うも同然じゃと。
是はね大きな声を出してはいけないと云う事じゃないです。やっぱり一心不乱に上げる時には、一生懸命腹のどん底から上げておると、一つの雑念が無くなるです。ですからやっぱそこに真と同じ様な心の状態が開けて来るです。段々に信心がね高尚になってなら御祈念例えばなら私しが、朝の四時から五時までの御祈念は、こりゃもうそれこそあのう言葉一つ出しません。いわゆる心中祈念ですけどもそりゃずうと神様と交流しよる事を自分で実感するんです。
例えこちらの方でどの様な雑音があっても、防げられる事がないです。そう言う段々稽古が出来る様になったら、言うならだんまりで御祈念しても良いですけれども、やっぱり皆さんその時にはね、本気で一生懸命に大祓いなら大祓いをあげる。なら祈りの言葉でも言葉にこう出してね、生神金光大神様天地金乃神様こうこうで御座います、ああで御座いますどうぞお願い致します、言葉に出して祈ったが良いです。
只真が無かったら神に虚言を言うも同然じゃであって、声を出して言う方が真に近い心の状態になれれるです。大祓いでもそうです、もう一心不乱に生神金光大神、高天原にば言いよってご覧なさい、心が澄んで来ます。そう言う心で、だから大祓いだから節を付けたりせんでも、とこう言うけれどもね。そのうやっぱりお経のごたる節を付けてはいけませんがね、やっぱり一つのリズムと云う物がありますからね。
節は付けたが良いです。合楽には合楽の、九州には九州の言うならば、祝詞を上げる調子が違いましょうが。大阪辺のはだらしがない様うに聞こえます。その変りあちらの人達は言います。九州とはまるで喧嘩しよるごたるち言うそうです。神様にまるで噛み付くごたる大祓いを上げよる。だからそれはそこそこで良いですけれども、そのリズムに乗ると云う事は、素晴らしい事です。ね。
だからここ辺りの所をならもう、口の中でモゾモゾモゾと言うと云う様な事じゃいかんと、朝の御祈念なんかする時には、男も女もない一生懸命に腹の底から大祓いを上げにゃいかんです。モニャモニャ言いよるけんじゃ睡ってしまうとる、是じゃ真も何もあったものじゃないじゃないですか。眠けりゃ眠い程一ちょう本気で腹の底からどん腹の底から、大祓いでも上げると云う事はです、眠気払いにもなりゃ、ね、真にも矢張り近い心の状態が開けて来るのです。ね。
そう言う所を、真がなけりゃ神に虚言を言うも同然じゃと教えて居られるのです。だから真があっての節をつける、真があっての大きな声を出すと言うなら、それの方が御祈念がし良いです。段々なら声を上げなくても大祓いや天津祝詞を奏上しなくても、神様とスーッと交流する様な稽古を段々、私共も初めからそげんじゃなかった。もうそれこそ何巻も一生懸命上げて、心が清まった所で心が澄んだ所で、さあ是が真じゃろうかと言う声が出た所で神様へ御祈念。
言うならば祈りの言葉と云う物は、申し上げとりましたけれども。この頃は段々おかげを頂いて御神前に、もう私の場合なんかもう朝の場合なんか拍手うつ暇がないです。あの祝詞座に座ったら、もう神様の方が待ち構えて御座ると言う感じですから、もう拍手を打つ暇はないです。もうそのまま祈りの実感を、そのまま神様に申し上げると言う様な稽古も皆さんもなら出来ます。稽古なさらなきゃいけません。
今日は私くしはこの六十節と言うのは、信心に神様参りをするにと云う事は、信心をするに例えば信心の節度、雨が降るから風が吹くからで、自分の信心を良い加減にする様では、おかげも良い加減になると。それを私しはつらぬき通すと言う事、雨が降ろうが風が吹こうが、こうと決めたら、矢張りお参りしつらぬくと決めたら、お参りし抜くと言う行き方を身に付けると云う事。
だから夕べ睡っとらんけん、神参りをするのに、夕べ睡っとらんけん今日は御無礼すると言う様な事では、神様にもそのていどにしか通用しない通わないと言う事です。信心のね一つキチッとしたせつどを信心には付けなければ、そうして夕べは睡っとらんけれども、矢張り神様だけには心を持って行く、そう言う生き方こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃるのですから。ね。
昔北野から参って来る方がりましたね、そんな雨の降る日に、下から濡れしぼたれてビニールの風呂敷なっとん敷かにゃ座られんごとなってから参って来た人があります。先生がもう雨の降る日に参ると余計徳を受くると言いなさったから、お天気の日はいっちょん参って来ん。雨の降る日だけ参って来る、そう言う意味じゃないですから。ほう雨の降る日やら風の吹く日やらに参って来ると、身に徳を受ける修行じゃと仰せられるから、そう言う時だけ参って来ると言う事じゃないです。
常日頃ちゃんとして出来て、そして信心を貫かせて通らさして頂く過程で、雨の降る事もあれば風の吹く事もあるけども、過程の上にも是が雨じゃろうか風じゃろうか、と言う様な事もありますけれども、そこを貫かして貰うて。もう今日はどう思うたっちゃいっちょん心が神様に向かん、御参りしょう事もない、そう言う時です其処ん所を修行と思うて辛抱しぬかせて頂く、そう言う心が身に徳を受ける修行と云う風に教えておられますが、正しくその通りだ。是は私くし自身が体験しとります。
だから信心の節度と言う事を申します。信心はそう言う節度が要ると同時に、また真がなければと云う事を、此処では説いてあります。だからその真と言う事も難しい事ですけれども、だから大声を出したり節を付けたりせんで良いと言われるけれども、節を付けたり大きな声さしてで御祈念さして貰えば、それだけ言わば無雑なもの、雑念が入って来ない。一心不乱に大きな声を上げさせて頂いておると。心が真に近い心が頂けれる。だから只ここは所謂真がなしに節を付けたり。
ただ大きな声を出しとるだけではいけんというのです、それの方が真が出しよい、心が言わば純心無雑になれれる、なら一生懸命にやっぱ声を出して節を付けて拝まして貰うたら、神様に通うた様な心がする。だから大きな声を出しちゃならん節を付けちゃならんと云う様な事ではないから、間違えんように、どうでも信心に節度がいる、同時にその内容が真でなければならんと云う事を、六十八節には強調してあると云う風に思います。
どうぞ。